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隣人のひとり言

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2005年 02月 25日

2/24 才能とはどれほどのものか


今日は渋谷にある写真学校のオリエンテーションに行ってきた。
といっても、受けた人は僕を含めて三人だけ。
毎日のようにやってるものだから、
一回の人数はこんなもんなのでしょう。

で、一時間ほどスクールの説明を受けた。

そして最後に僕はこう質問してみた。

「いわゆる”いい写真”を撮る上で、
技術と才能というのは、どのくらいの割合を占めてるものだと思いますか?」

答えはこうだった

「難しいですねぇ。でも、いい写真を撮る上では間違いなく技術は必要です。
このスクールでは、そういった技術を学びます。その技術が土台となって、その上に
何を付け足していくか、それはやはり才能やセンスといったものが関わってくると思います」



ふむ。

それは・・・そうなんだけどね・・・


一枚の写真があった。
NYの路上で、大きな荷物を運んでいる人の後ろ姿だ。

例えば、学校で同じ期間だけ技術を勉強した二人がいたとして、
同じ場所、同じ瞬間に、同じ性能のカメラで、
その後ろ姿を撮った時に、焼き上がった写真上に現れる違いというものは
いったい何処からくるのでしょうか??


それこそ才能、ですか?

それとも運、ですか?

違いなんてない、のですか?



僕は、
個人的には、
そこに出る違いは才能の一端だと思いたい。

信じたい。



僕は常々、才能というものを使うフィールドで生きたい、
そう思ってきた。

誤解を招きそうなので、先に断っておきますが、
別に僕に才能がある、と言ってるわけではありません。
ひょっとしたらゼロかも知れない。
でも、あるかも知れない。
あると信じたい。
そして、もしあるのなら、それを引き出したい。

そう 思うわけです。

なぜか?

それは、才能こそ個性そのものだからです。
なんの混ざり物もない、
薄まってもいない個性を表す要素そのものだと思うからです。
純度100%のもの。そんな感じがします。


僕はそこに使命みたいなものも感じているんです。

誰でも学べば身に付く技術では、
その人が産まれてきた意味には辿り着かないでしょう。


僕が、
他の誰でもないこの「僕」が産まれて、生きてきたことには、
やはり果たすべきなんらかの使命があるんじゃないか。


使命なんて大げさなものではないかも知れない。
綿毛よりも軽い存在で、
吹けば何処かに行ってしまうような儚いものかも知れない。


ただ、
例え綿毛でも、
そこに「ある」のと「ない」のとでは全然違う。

「存在している」ことと、「存在していない」ことはまったく違う。


だったら、例えばそれがごくごく僅かなものだとしても、
存在しているのならば、「才能」を引き出すべきだと思う。

引き出して初めて自分が完成形になるんじゃないか、
そんな風にも考えます。



僕が見てみたいのはそれ、

人生という時間をかけて辿り着きたいのは、

そういったものに繋がってる気がする。




『才能がないなんて人間はいない。
 ただその才能に気付くチャンスを作れない人間が大勢いるだけだ』

 ーーーーーーーーー anonymous

by quasi-world | 2005-02-25 00:26 | 哲学


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